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2022年に亡くなった祖母が参加したと聞いていました。
ぱっと見ではどこに使われているのか分かりませんが、お墓参りに行った際に「あの辺りかなぁ」と思いながら見るのを楽しみにしています。
先日福知山城の展示を見た際に明智光秀が家の近所で亡くなっていたことを知り、大変驚きました。
そういえばそこは「明智藪」と呼ばれていましたがその意味がわかりました。
(春風みらい)
夫婦の趣味で、日本の各地のお城や城跡を見学し見れないお城はDVDを見て楽しんでおりましたが、市より昭和の瓦一枚運動に故波多野義夫が参加しました。
市民の絆の福知山城の再建が嬉しく天守閣を見て誇りに思います。
私たちの広報にも載せてトップを飾っています。
(波多野喜久代)
『瓦一枚運動』に思う。
35年前の瓦一枚運動を思い出し懐かしく思う。自治会の呼びかけで、また、お城の建設工事参加者として個人で3回の寄附をさせて頂いた。
私が小学校の頃、父は福知山城のすぐ下で瓦店を経営していた。今は、全て機械で瓦を屋根に上げたりおろしたりするが、当時(68年前)は全て肩で何十枚もの瓦を肩に乗せて、木の梯子で運んでいた。その頃、お城の石垣はあったが、お城は無く、子ども心に「なぜお城がないのかなぁ」と思っていた。
その後、城下の瓦店は、父から子へと引き継がれた。2代目の社長の時、福知山城の瓦屋根葺工事に参加した。当時、私も建築板金業を経営していたので、お城の板金工事に参加し、全力で仕事に取り組んだ。一度も施工した経験のないお城の板金工事を夜も寝ないで頑張った。参加した業者は『素晴らしいお城を作りたい』その一言に尽きると思う。お城通りを通るたびお城を見て、福知山市民の宝だと思うと同時に参加業者の誇りでもある。
もう一つ、忘れられない思い出がある。
瓦職人で、福知山城の瓦屋根葺工事に若くして携わった芦田祐史君の事である。
彼は、福知山市民の寄附により出来上がった市民の瓦を一枚一枚選り分け一生懸命葺いていた若者だった。
若くして京都で神社仏閣の屋根葺専門の会社で修業し、福知山城の瓦屋根葺きに挑んだ。福知山城の完成後、7年で病気になりこの世を去った。31歳の時である。
彼がいなくなって26年経つが、今も素晴らしい瓦のお城。
彼は遠い空の彼方から、福知山城をいつも見守っていると思う。
明智光秀で観光客が増え賑わっているお城を、今見せてやりたいと思う。
福知山城がいつまでも輝き、次の世代に残していくのが福知山市民の務めであると思う。
(K.U.)
お城が再建されると知り記念になるかなと思い瓦一枚運動に子ども三人の名で参加しました。お城を見るたびに瓦に子どもたちの名が記してあるんだと少し誇らしく思っておりました。
折にふれ子どもにも「天守閣の瓦にあなたたちの名が記してあるんやで」と話してきました。
そして今、大河ドラマを機に全国から注目を集めている福知山城。うれしい限りです。
(しろまるくん)
意外と知られていないのかな?なんて思いつつ「瓦一枚運動で私と家族の名前(4人)を書き5000円を同封した」と記憶しております。お城の瓦に名前が残る歴史的なもの、との思いと立場上からの寄附でした。城が完成した後に長田野各企業に対して製品紹介(展示)の依頼があり、私も人造黒船電極等のミニチュアを作成し城の展示室を飾ったのを鮮明に覚えております。
(鶴本照啓)
「瓦一枚運動」の思い出
この運動は昭和61年、今から34年前とのこと。
すっかり忘れていた。広報を見て思い出した。
その頃、私は国鉄勤務で福知山市内田町の国鉄アパートに住んでおり、ある日福知山城址に城を復元する案が出て寄附をすれば、瓦の裏に氏名を書いて城へと、一口3000円との内容の回覧が回ってきた。我が家で3000円といえば、かなりの出費だったが、回覧を見た人たちは口数を書いておられた。あの人がして、自分がしないのは悔しいので、少々意地を張って、一口・・・と記入した。
生まれは豊岡市日高町で、よそ者が寄附しても良いのかなぁーと思いつつ、寄附した。今、自分の瓦が上の屋根か、下の方かどのあたりに?と楽しんでいる。福知山市に永住して良かった。今は亡き光秀公もたった一枚の瓦だけど、“ありがとう”と言ってくれるだろう。と勝手に楽しんでいる。
(岡田清)
17回忌を迎えた父が生前、参加したそうです。
聞いたのはもう30年ほど前。盆か正月か、福知山の実家に帰省したときに福知山城再建の話になって『自分も瓦一枚運動に一口寄附したんだよ』と言っていましたね。
福知山城と自分をつなぐエピソードです。
(N.I)
亡くなった祖父が福知山城や由良川の撮影を8ミリビデオで当時熱心にしてました。
きっと、祖父母や叔父も瓦1枚運動に参加していたと思ってます。
今は本人に聞けないけど…きっと。(お寺にすごい寄付してたのは知っているので。)
両親が福知山出身でいろいろ話を聞いて…福知山がテレビに映ると、注目してます。
(イル)
当時3000円は今でいう1万円程度。出すにはなかなか勇気がいる値段だった。
自治会の回覧文書でこの運動を知った。夫婦とも市職員だったこともあり、「森方家」として一口寄附した。
いつか城が崩れたときに、「森方家」の名前が出たらおもしろいかなと思い寄附した。
(森方百里子)
昭和59年冬のある日、「朝暉さん(朝暉神社)にお城再建らしいよ」「ほんまかいな。どんなお城になるんやろ」「お金が相当いるんやろな」など、町内ではワイワイガヤガヤ。
そうこうしていると、同年3月14日付け福知山城再建募金趣意書がまわってきました。地元有力者はじめ朝暉会(旧武士の親睦団体)の方々、再建に気のある市民の多くが募金に協力されました。お城(朝暉さん)は内記の中心であり、朝暉会の会員宅、そして朝暉会の事務所も町内にあります。昔から花見、散歩、子どもたちに遊び場とか水害時の避難場所(明治~昭和中ごろ)として、市民にとってなくてはならない場所でした。
町内としましては、瓦一枚運動はじめ多数の人が個人の募金を相当にされました。そして地元自治会として、やや大口の募金10万円を納められました。当時の自治会長、朝暉公園保勝会が中心でされました。
今まさに、「麒麟がくる」で明智光秀公が放送されています。今まで逆臣といわれていましたが、いろんな事柄が背景にあって「本能寺の変」につながったと。光秀公の知略と理想、そして温かい人柄もあったことと思いながら楽しみに見ています。
それにて観光客が増えてきて、福知山にとって大変ありがたいことです。
福知山城再建は再建期成会の各組織と市民パワーの結集ができたからこそと思っています。このような堅固な体制造りによって、どんな事態が来てもその対応ができ、克服できると信じ未来は開かれると確信しています。
(河波司)
お城の再建の機運が高まっている昭和61年に父親が亡くなり、「瓦一枚運動」のことを知り、供養にと妹と一緒に父の名前で寄附しました。
それから20年後、市の嘱託職員をしていた私がお城勤務になり、仕事で天守閣の窓を開けに行く都度、父の名前が刻まれているのを見て、「今日も頑張ります」という思いでした。
9年余り、多勢の来城者の方々と関わり、楽しく仕事をさせていただきました。
大河ドラマ誘致運動にも力を入れ、決まり、入館者が増えて賑わっているのを見て大変うれしく思っています。
(朝子みどり・森田由利子)
亡祖父が10万の寄附をし、名前が載っていました。
瓦に名前があることを知り、どの辺に使われているのか興味ありますね。
何度か家族とともに再建された福知山城を拝見しに訪れています。もっと詳しいことを祖父に聞いておけば良かったなぁーって今になって思ってしまいますね。
これからも、福知山城が皆さんに愛され、知れ渡って欲しいです。
(あきちゃん)