〈STORY 2〉昭和 -再建-

〈目次〉

・大阪城のようなシンボルを福知山に

・瓦の文字と込められた思いは消えない

・思い出・絆・夢の中心、福知山城

 明智光秀が築き、明治まで受け継がれた福知山城。明治6(1873)年に出された廃城令を受け、天守が取り壊され、建物は払い下げられた。堀や池は、堤や土塁、高台だった二の丸を削った土で埋められた。天守の石垣や銅門番所を残して姿を消したのだ。しかし、昭和後期になると、市のシンボルとしての福知山城天守再建の機運が高まった。

 昭和48(1973)年に基本設計図が描かれ、地質調査にも着手。オイルショックによる計画中断を乗り越え、総建設費約8.1億円をかけて、昭和61(1986)年11月9日に竣工した。建設費の6割以上にあたる約5.1億円は、昭和58(1983)年から4年間にわたり、天守閣の瓦一枚分にあたる一口3000円の寄附を呼びかけた通称「瓦一枚運動」によって集められたものだった。約8500もの個人・団体が寄附したという「瓦一枚運動」はどのようなものだったのだろうか。関係者たちの証言から一端を明らかにする。

大阪城のようなシンボルを福知山に

― 西田豊さん(瓦一枚運動の発起人・西田政吉さんの長男)

西田豊

西田豊さんと父・政吉さんの写真

 「父、西田政吉(平成14(2002)年没)は、家業以上に福知山城再建に情熱を注ぎ、その夢を実現した人です」と胸を張るのは福知山市に拠点を置く西田工業株式会社会長の西田豊さん。政吉さんは若いころに大阪で仕事をした際に大阪城の再建(昭和6(1931)年完成)を目にしていた。だからこそ、福知山にシンボルがないことを嘆き、「まちのシンボルをつくりたい」と豊さんに夢を語っていたという。

西田豊

再建前の福知山城址 昭和44(1969)年

 転機が訪れたのは昭和43(1968)年のことだった。かつての福知山城主、松平忠房が寛文9(1669)年に国替えとなった先である長崎県島原市で、江戸期の福知山城を描いた絵図が発見され、福知山城再建の機運が高まったのだ。しかし、石油危機で計画は中断してしまう。そのときに立ち上がったのが、政吉さんだった。福知山商工会議所の会頭を務めていた政吉さんは、昭和59(1984)年に「再建期成会」を結成し、天守閣の瓦1枚にあたる3,000円の寄附を募る「瓦一枚運動」を開始。その背景について「寄附者の名前を記した瓦を屋根瓦にすることで、全市民に城主の気分を味わってほしいとの願いがあったようです」と豊さんは振り返る。

西田豊

再建前の福知山城址

 結果、約8500もの個人と団体から5億円を超える資金が集まった。「当時40代半ばだった私も寄附しました。昭和61年11月の完成時には、父と手がちぎれるくらい強い握手をしたのを覚えています」と昨日のことのように豊さんは語る。

西田豊

 豊さんは、仕事などで京都駅から山陰線に乗って福知山に帰ってくるときは必ず右側の座席に座る。すると、福知山城が車窓から綺麗に見え、福知山に帰ってきた実感がわくのだという。「天守閣は市民のみなさんの夢、熱意があったからこそ再建されたという事実を後世に伝えてほしい。福知山城に胸を張り、まちを発展させてほしい。それが父と私の想いです」と市のシンボルとなった福知山城とまちの発展を願っている。

西田豊

西田豊(にしだ・ゆたか)

昭和15(1940)年、京都市生まれ。西田工業株式会社代表取締役会長。福知山市に拠点を置く明治42年創業の西田工業株式会社(旧・西田組)の4代目。2代目である父、政吉さんは福知山市商工会議所会頭として「瓦一枚運動」の発起人となり、福知山城再建の道筋を作った。

瓦の文字と込められた思いは消えない

― 安達翠鳳さん(書家)

安達翠鳳

 福知山城天守閣の瓦には寄附者の名前が記されている。その名前を記した1人が、書家の安達翠鳳さんだ。筆で願い事を書き奉納する瓦の寄進が京都の寺院などで行われていることにヒントを得て瓦の裏に名前を記す作業が始められたのだという。「寄附者の名前や住所を記した短冊を見ながら、私たちは心を込めて筆を走らせました。知人の名を見つけるとうれしくなりました」と安達さんは当時の状況を語る。

安達翠鳳

再建中の福知山城天守

 地元の書家4人で約8500もの個人名や団体名の名前を一枚ずつ瓦の裏にしたためる作業は毎週末行われ、1年間に及んだ。読みやすさと速さを重視し、行書に近い楷書で記されたが、波打った形状の瓦に書くのは予想外に困難を極めた。城の石垣だけが残る広場に張ったテントが作業場で、冬はテントの周囲に紅白の幕を張り、寒さをしのいだという。「ストーブはありましたが手はかじかみ、本当に寒かった。でも、戦国時代、町民や武士らが苦労して築いたという福知山城の歴史に思いを馳せながら書き続けました」と安達さん。奈良で作ったという、いぶし銀の特別な瓦をアルバイトの学生や市の職員らが運び、4人が座る前の机に置かれていった。思い出深く、当時の筆はいまだに手元に残されている。

安達翠鳳
安達翠鳳

 安達さんは自身も寄附をした一人。「自分の名を記した瓦は、どの辺りにあるのかな」と城を見上げる。「寄附者のみなさんは同じような思いをされているのではないでしょうか。古文書が今でも読めるように、墨で書いたものは消えません。瓦の文字も、みんなの力で再建した福知山城とともに後世に残っていくのです」とやり遂げた喜びに笑顔を浮かべる。

西田豊

安達翠鳳(あだち・すいほう)

昭和9(1934)年、福知山市生まれ。書家。「瓦一枚運動」当時は市教育委員会の職員でもあった。市内で活動していた岡村鬼城さん、桐村紫水さん、大志万青峰さん(いずれも故人)とともに、4人で計約8500枚の再建に使われた瓦の裏に寄附者の名前を墨で記した。

思い出・絆・夢の中心、福知山城

― 北林夏さん(福知山市出身のライター)

北林夏

 福知山城の瓦には今でも約8500の名前が残っている。そのうちの一人、栃木県足利市の北林夏さんは「自分の名前が瓦にあることに子どものころは価値があると思っていなかったが、今では息子に自慢しています」と話す。北林さんは福知山出身。「瓦一枚運動」が展開されていたときには福知山城の近くにある市立福知山幼稚園の園児だったが、母の明美さんが北林さんの名前で寄附をしていた。

北林夏

再建中に福知山城で遊ぶ北林さん

 「福知山城ができていくのを見ていた記憶が残っています」と話す北林さん。建設途中の城の石を拾ったり、工事現場の草花を摘んだりしたことを覚えているという。小学生のときに父親の仕事の都合で約2年、福知山を離れた際には引っ越し先の岡山県津山市で「福知山にはお城があるんだよ」と自慢したという。毎年楽しみにしていた「福知山お城まつり」や、高校生のときに参加して完走できなかった福知山城を会場にした二人三脚、高校卒業のときに友人たちと天守閣から眺めた風景…。思い出の中心には福知山城があった。 大学進学と同時に福知山を離れ、結婚し、3人の子どもを授かった。それでも、帰省の際には福知山城に寄って毎回のように天守閣に登っている。長男の陽向さんは歴史好きで、「福知山城の瓦に名前がある」ということを伝えると、すごく羨ましがられたのだという。そのときに母からのプレゼントのありがたさを感じ、また、より深く地元との結びつきを実感した。一枚の瓦が親子3代にわたる絆を育んでいる。

北林夏

 足利市でまちづくりに携わっていることもあり、福知山市の情報のチェックは欠かさない。まだ挙げられていない結婚式を福知山で開こうと、令和元(2019)年に市が募集した一日城主の企画にも応募した。結果、一日城主はオーストラリアの中高生になり、北林さんは選ばれなかったが、「結婚式も開きたかったけれど、地元が盛り上がってくれるほうが嬉しいし、よかった」と語る。「いつか地元である福知山に帰って、地元を盛り上げたい。地域の面白い人が集まるような場所をつくりたい」と夢を語る北林さん。自分の名前が記された福知山城は思い出の中心から夢の中心になっている。

西田豊

北林夏(きたばやし・なつ)

昭和54(1979)年、福知山市生まれ。栃木県足利市在住。ライター、NPO法人おともり副理事、コミュニティカフェ「マチノテ」スタッフ。2男1女の母。「一人娘で可愛がられていた」ことから、母の明美さんによって瓦一枚運動の寄附者として届けられ、瓦に名前を記されている。夢は福知山に戻ってコミュニティスペースを開業すること。

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〈STORY 3〉
令和 -挑戦-

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